本多忠良
本多平八郎忠勝の流れを汲む本多肥後守忠英の長男として、元禄3年(1690)に生まれる。
初めは忠隆といい、のち権次郎と称した。
宝永6年(1709)9月13日越後国村上藩主本多忠孝が12歳で早世したため、忠良が遺領の内5万石を与えられて養子となって家を継ぐ。
同年12月従五位下中務大輔に叙任する。翌7年5月23日刈谷に転封となった。
本多家は功労のある家柄として幕府から優遇され、同年御側用人として将軍の側に仕える。
この本多氏のときに刈谷藩最大の5万石を領した。
この時刈谷藩では給人による地方知行が行われ、定免制も行われている。
このほか農民に干鰯を貸し付け、翌年秋に利息をつけて返させるということが行われている。
正徳2年(1712)7月12日下総国古河に転封となる。刈谷在城は3年弱の短い期間であった。
刈谷市民だより H15年1月15号 刈谷人物名鑑より