熊野檀那職譲状写
和歌山県東牟婁郡那智勝浦町にある熊野那智大社所蔵の米良文章中にある応永十六年(1409年)の檀那職譲状のこと。
応永十六年正月十一日、僧良尊は弟子良実に尾張11ケ所、三河21ケ所の檀那場を譲り渡した。
ここにみえる地名の居住者が熊野那智社の御師良尊の檀那であり、彼らが熊野三山(本宮・那智・新宮)へ参拝する際の案内・祈とう・宿泊を業とし先達(せんだつ)を仲介として巻数(祈とうをこめた経文)・守札・牛王宝印(ごおうほういん)などを毎年配布していた。
熊野三山は古くから修験道の霊地として信仰の対象とされてきたが、平安初期には観世音菩薩のいる補陀落(ふだらく)浄土、平安末期からは阿弥陀如来の極楽浄土とみなされて、そこへ参拝することで息災・延命・極楽浄土がかなうという信仰が広まっていった。
その信仰を広め、遠方の参詣困難な人々を組織して信仰の仲介者となったのが御師と先達であった。
御師は平安末期以後貴族や武士と師檀関係を結び、中世後期になると農村の上層農民を地縁で掌握するようになった。
それが檀那場として郷名が記されたものの内容である。
先達は熊野で修行した山伏中の功績ある者が任ぜられ、特定の御師の配下として熊野にいる御師と檀那の仲介者であった。
この譲状は刈谷市域や周辺地域の中世地名の初出史料として引用される著名な文章である。
刈谷市史(発行:刈谷市)より参照